4/20/2008

賢いネズミたち

注意:当初、2つ目に紹介していた論文は、思いっきり勘違いしていましたので、削除しました。すみません。。。JHクン、指摘サンクスです!

最近、ネズミ(げっ歯類)の知性に関する研究がいくつか目に付いたので、2つまとめる。

道具を使うデグー
まずは、RIKENの岡ノ谷先生と入來先生たちのお仕事

この研究では、デグー(Degus)をトレーニングしたら、手の届かないところにある餌を、「熊の手」を使ってとれるようになった。しかも、熊の手のサイズ・色・形が少々変わっても、同じように使いこなせる柔軟性を示すこともわかった。つまり、デグーは、手の届かない餌を「道具」を使って取れる能力を学習によって示したことになる。

このような道具使いの能力は、複数の認知能力が組み合わさった結果として発揮されるものであって、高度な知性から生じる特別な能力ではない、という可能性が考えられるようだ。

この研究は、アメリカのメディアでも紹介されたし、全く別のメンツで食事している時にも話題になった。一つは外人(正確には欧米人)。もう一つは日本人同士。アメリカでもすでにインパクトのある研究のようだ。

ちなみに、この論文の導入部分やwikipediaにもあるように、デグーは社会性が発達しているらしい。霊長類でもそうだが、ハイエナでも社会性が発達している種ほど前頭葉が大きい(新聞記事論文)、という話がある。もしそうだとすると、このデグーの前頭葉は、他のげっ歯類に比べ発達しているのか興味があるところ。確かに、web上の写真を見ると、体の割に頭でっかちで、顔が前の方に長い気がするのは気のせいか。。。

文献
PLoS ONE. 2008 Mar 26;3(3):e1860.
Tool-use training in a species of rodent: the emergence of an optimal motor strategy and functional understanding.
Okanoya K, Tokimoto N, Kumazawa N, Hihara S, Iriki A.


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ラットの「エピソード記憶」再訪

今度は逆に、ラットの限界を突きつけたといえそうな研究を手短に。

エピソード記憶は、どんな出来事(what)が、どこ(Where)で・いつ(When)起こったかに関する記憶。さらには、それを想起する時にありありとしたフィーリング(専門的にはautonoetic consciousnessとも言うようだ)が伴う記憶とする説がある。

ラットも「エピソード記憶のような記憶(episodic-like memory)」をもっているのではないか?という論争がある。

しかし、最近サイエンスに報告された研究によると、ラットのそれは、ヒトのエピソード記憶とは質的に違うようだ。

ラットはメンタルトラベルをするというより、出来事がどれくらい前に起こったかを何らかの形で維持する形で記憶をもっていて、ヒトのエピソード記憶とは質的に違いそうだ、という結論のようだ。

ラットを含め動物のエピソード記憶というのは、意識的な体験の問題に踏み込まないといけないだろうから、実験方法論的にいろんな壁がありそう。ひょっとしたら、今後もこの議論は続くのかも。ラットに喋ってもらう方法を考え出さない限り。。。

文献
Science. 2008 Apr 4;320(5872):113-5.
Episodic-like memory in rats: is it based on when or how long ago?
Roberts WA, Feeney MC, Macpherson K, Petter M, McMillan N, Musolino E.

エピソード記憶に関してはpooneilさんのepisodic memoryのカテゴリーが非常に詳しくて勉強になります。
エピソード記憶の定義については、同じくpooneilさんのこちらのエントリーも参考になります。
bloggerはTBをサポートしてなくて、勝手にリンクしてすみません。> pooneilさん)


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最後に、最近の研究というわけではないが、過去立てた関連エントリーもついでに。

ラットの知性について紹介した新聞記事の紹介
ラットのメタ認知を調べた論文の紹介

2 comments:

Anonymous said...

Shuzoさんへ

脳の研究はやっぱり奥が深いですね。

“記憶”“情動”“感覚”“思考”はもちろん、運動、自律神経系や免疫系まで関連があるのですから、当然と言えば当然なのでしょうけど。
“記憶”一つとっても、それが何時の時点で発生するものか、そして本当に“記憶”は“脳”にだけ局在しているのか。

確かに、Shuzoさんの仰るように、エピソード記憶となると“脳”、それもかなり発達した“脳”を持っている生物にしかないのは“感情”や”時空記憶”を持っていないと、厳密な意味での“エピソード記憶”とは定義されないのだとすれば、仰る通りでしょうね。

ただ、“脳”という特化した“器官”を持たないと、本当に“感情”が無いのか、“記憶”は無いのかと言うと、わたしのような専門外の人間には解りかねます。

たとえば、単細胞生物でも“生存本能”みたいなものがあって、自己生存の危機に関しては、逃避行動を取りますよね。また、肉食昆虫等は、食料となる他の昆虫などを捕食しようとする時“攻撃行動”をとりますよね、で、“攻撃行動”には情動で言えば“怒り”に分類される“プレ情動”があるような気がします。

“記憶”については、ネズミなどの“げっ歯類”で、よく行われているよですが、もっと下等な(何が下等なのかよく理解できていません)プラナリアやミミズなどでも、アメリカ得意の“行動心理学”実験で行われていて、いかなる機序かは解りませんが、“学習能力”があるように記憶しています(しかもその獲得記憶は、記憶獲得した個体をすり潰して、別の個体に注入しても残るとか……)。

“脳”は神経系が特化して、出来上がってきたものと思いますが、神経系、プレ神経系のような時点で、高度な情報処理能力の芽生えのようなものはあるような気がします。

これはバラエティ系ですけど、“心臓移植”“肝臓移植”などを行ったレシピエント患者さんが、時に、急に“性格”が変わったり、食物の好みがかわったり、極端な場合は、趣味がドナーの趣味と同じものにかわったりする事があると言うのをヤッてますが、これなんかは、脳科学からいえば「眉唾物」かもしれませんが、もしも本当なら、“検討&考察”の対象に十分なると思います。

なんか、課題が大きすぎて、またわたしの知識が貧困すぎて、このようなとりとめもないようなコメントしかできませんが、この辺りがわたしの今の限界です。まとまりのないコメントで申し訳ありません。

Shuzo said...

こんにちは、阿瀬王さん。

> ただ、“脳”という特化した“器官”を持たないと、本当に“感情”が無いのか、“記憶”は無いのかと言うと、わたしのような専門外の人間には解りかねます。

少なくとも記憶に関しては、
http://swingybrain.blogspot.com/2008/02/rhythms-without-brain.html
で紹介した論文のように、神経系を持たない粘菌にも記憶・期待のような仕組みが備わっているのでは?とする研究もあります。ですので、神経系は必要条件ではないかもしれませんね。

ただ問題は、記憶をどう定義するか、何を問題に議論しているか、で解釈は変化することです。これは「意識」の話で最も問題になります。が、意識はさすがに定義が難しいので、あやふやなまま議論する傾向が高いかと思います。意識の問題はみんなそれぞれにこだわりを持ってますので、それぞれ微妙に定義が違ったりします。そのために、さらにやっかいなことになります。けど、だから面白い、とも思ったりもします。(脱線しました)

その点、「エピソード記憶」に関してはTulving(http://en.wikipedia.org/wiki/Endel_Tulving)が徹底的に議論して研究者コミュニティーに受け入れられている定義が存在しているようです。

今回の研究では、その定義に従えば、ラットの「エピソード記憶のような記憶」はヒトのそれとは質的に異なる、という結果なのだと思われます。

ラットからしたら「ほっとけ!」と思うようなことでしょうが、それがサイエンスだから仕方ないですね。。。